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音楽から遠のいた30~50代の楽書き

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音楽から遠のいた30~50代の楽書き

 

初めに

音楽に興味を持った高校生時代からの私の音楽関連事項と人生の変換点になった楽書(落書)きです。

過去の事は思い出して書いていますので時系列でおかしな所も有ると思いますがご容赦下さい。

30才~50才代編

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2009年 (59才)

単身赴任終了

五所川原市に3年契約で来て、最初は早く帰りたいなと思っていましたが、津軽三味線を始めてから急に青森が好きになり定年まで居ても良いと思う様になりました。3年以降の延長は自分で伸ばした様なものです。

津軽三味線をやる者にとって青森は聖地です、なおさらその津軽に居れるのだから。

我社での単身赴任は、私が初めてで有りすごく条件が良かったです。月に4回帰省可能、航空運賃もアパートの光熱費も会社負担、ですから延長してもあまり精神的にも苦痛は無かったです。でもやはり当初は頻繁には帰れなく寂しい思いもしました。

2002年に孫が出来てから頻繁に帰省する様になりましたが。この頃は仕事も順調である程度皆に任せれる様になってました。

しかし2009年の9月に頸椎症を患って会社を1ケ月ほど休み治療しました。それが有り社長が体の心配をして年末で岐阜に帰任する様にと辞令が出ました。まだ居たくて心残りでしたが、五所川原の工場の永久顧問にして頂きました。ですから今でも年に5~6回は行っています。

3年契約が13年居た事になります。

私の故郷 1:多治見市 2:岐阜市 3:五所川原市と思ってます。

1999年 (49才)

NHKのど自慢予選大会

五所川原市でHNKのど自慢大会が開催されると知り、応募したら当選して予選に出る事ができました。一人40秒程歌って合否の判断がされます。

演歌の「みちのく一人旅」を歌いましたがあっさり予選落ち、当然です声が全然出てませんでした。

でもこの応募に抽選で当選し予選に出る事自体がかなり難しい、とりあえず予選でも出れただけ幸運です。

 

この時の本選会のゲストは南こうせつさん、若い頃よくこうせつさんと間違えられました、結構似ててギターケース持って歩いているとよく声を掛けられました。今は体重が増えてとても似つかないビジュアルですが。

当時より現在は体重10kgほど増えています。昔の体形にと2019.6.25からダイエットに挑んでます

青森での音楽仲間

このころ妹がインターネットで青森の人と知り合いになりその知り合いの友人が五所川原でフォークソングをやっていると紹介され電話番号を聞いて、しばらくしてから電話で連絡を取る様になりました。

初めて会ったのは五所川原のBOZ(ボズ)というバーでした。その後どこかの店でコラボをやった記憶が有ります。お互いのCDを交換し合いそれから疎遠になりました。

このBOZのマスターも加川良さん好きで、話が盛り上がった事を思い出します、しかしマスターはもう永眠されました。かっこいいマスターでした。

このBOZの店を歌った五所川原のバンド「風西鶴のDear Life」が2013年NHK熱血親父バトルでグランプリを受賞しています。

津軽三味線との出会い

20代の頃に効いた津軽三味線の音色がすごくエレキギターの音に似ていて良いなと思っていたので、青森に行けば皆が三味線をやっているだろうと期待して来ました。しかし会社で聞いても誰もやってないし知り合いにも居ないと言うのでがっくりです。

しかし1999年の7月から五所川原のイトーヨーカー堂の文化教室で津軽三味線の講座が始まると知り、早速申し込みました。

わくわくして初日の講座から行きました、三味線は借りる事も出来ますが購入する事にしました。初心者の練習用中竿で8万5千円(ギターならそれなりのが買える)いよいよ練習開始、でもギターと違い撥が糸(弦)に当たらない。音を出す以前の問題である。でも少し慣れてくればそれなりに弾けるようになりました。ふつう三味線の稽古は先生が2小節ほど弾き、それを真似して覚える稽古方法ですが、その教室の先生中野孝則さんは楽譜で教える新しいタイプの先生でした。

このころギターも再開していたので、休日は会社に持ち込み練習していました。津軽三味線は弾くというより叩く感じなのでとてもアパートでは練習できません。

毎年、青森県弘前市と金木町で5月の連休に津軽三味線全国大会が有るのだが習い始めた翌年初めて聞きに行きました。

殆どが津軽じょんから節の曲引きをやり、すごい迫力で涙が出てきました。音楽で涙が出たのは加川良さんの教訓を聞いて以来です。でも自分である程度弾ける様になると、この感動は薄れていきました。

1999年東京ドームで喝采青森大祭典が有り津軽三味線1000人弾きに参加させてもらいました。

私も金木の大会に2002年から6度出ました、今思えば上手くもないのに良く出たなと恥ずかしく思います。

この大会に出るというう事で地元の新聞に取り上げられた事も有ります。

 1998年 (48才)

ライブハウスでCD製作

単身赴任からしばらくたって心に余裕も出来て五所川原の街を散策する様になりましたら、ライブハウスを発見しました。ここで唄ってCDでも作ろうかなと思い、その店に相談したら快くOKしてくれました。

それから1ヶ月程練習してから1時間ぐらいのライブ演奏を録音してもらって、ビデオ、CDを作成してもらいました。

この頃、世間ではチューニングはギターチューナーを皆使用してましたが、私は知らなくてハーモニカで合わせていました。ですから1時間のライブでかなりの時間チューニングに費やしています。

 

1996年 (46才)

青森県に単身赴任

1996年5月から青森県五所川原市で会社の工場が操業する事になり、私が単身赴任で行って立ち上げる事になりました。

なぜ青森に工場をですが、昭和50年代後半から60年代にかけてのバブル期に会社は人手不足で青森県五所川原市から多くの季節労働者を受け入れていました。その関係で五所川原市に工業団地を作るのでと誘致が有りこちらに工場を作れば人手不足は解消されるとの事で平成3年に工業団地の土地を購入しました。(他の多くの会社は東南アジアを目指した頃です)

平成4年からは、いずれ五所川原で操業をする条件で青森から新卒者を雇用する様になりました。しかしその頃からバブル崩壊で工場建設が遠のき、平成7年にやっと建設に至りました。

工場建設に辺り、そこで何をやるかは決まっていなくて私に相談された時、自分なりの考えを述べました、そしたら私が3年契約で行く事になってしまいました。

最初に青森で一番困った事

最初に五所川原に行ったとき市役所の人がアパートを手配してくれていて、その不動産屋の電話番号は聞いていました。電話して場所を聞いていけば良いと地図も無く行きました。電話を掛けたのですがさっぱり津軽弁で分からない。本当に困りました、直接会って話す場合は身振り手振りで余程理解できますが電話は言葉が通じないとまるっきりダメだとおもいました。結局、住所を調べて行く事にし無事到着しました。

会社では若い連中ばかりで私とは標準語で話してくれるので困らないです、ただ従業員同士が話しているとさっぱり分からない。最近は聞くことはだいぶ分かる様になってきたが、話すことはまるっきり出来ません。

 

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⇒青森単身赴任記録

⇒青森単身赴任中のエピソード

⇒青森単身赴任中行った観光地・食物

1991年 (41才)

急性喉頭蓋炎

会社で昼食を済ませ休憩をしていたら急にのどが痛くなりだし、これはひょっとしたら救急車を呼ぶ事になるかもと感じ、すぐ早退して医者に行く事にしました。
帰って自宅近くの耳鼻咽喉科でみてもらいとりあえず喉の消毒をし、薬をもらい何かあったら県病院に行く様にと紹介状をもらい帰りました。
自宅に戻り薬を飲もうとしたら水が飲めない、妻が顔に黄疸が出ているというので、すぐ県病院にいきました。
急性喉頭蓋炎と診断され即入院、点滴で、のどの腫れを抑えるしか治療法はなく、ナースステーション前の廊下にベッドを置かれそこで治療を受けました。かなり危ない状況だったのです。

とにかく喉が痛くて唾も呑み込めない、眠くてうとうとすると喉がつまり呼吸が出来なくて目がさめる。
つばが飲み込めないのはすごく苦痛と初めて感じました。
点滴が効いてきたのか多少、痛みも和らぎ眠りにつくことが出来ました。
眠りから覚めた時、人が急に亡くなった場合、自分で分からない事があると聞いた事が有ります、この時、自分は生きているのかと疑いました。

結果2週間入院し無事完治しました。

この病気の原因として 感染/悪い空気/のどの使い過ぎ等らしいです。

煙草を吸い、飲んでカラオケを唄っているから、なったんだと皆から言われました。

今までの3つの病気をしていますが全て急性です。
急性腎臓炎/急性胆嚢炎/急性喉頭蓋炎 急性で有るので直りは早いです。

急性喉頭蓋炎

急性喉頭蓋炎(きゅうせいこうとうがいえん)は細菌感染による声門上部の急性炎症である. 上気道狭窄をきたし呼吸困難が出現し,窒息をきたすことがある緊急を要する疾患である. 単なる咽頭炎と誤診し適切な治療がなされず,急速に炎症が増悪し喉頭蓋に発生した浮腫・腫脹が進行すると致死的な結果に至るきわめて危険性の高い疾患である

カラオケ大会優勝

この頃は、スナック通いが多くなり、カラオケで演歌を歌うようになり、勢い余って地元のカラオケ大会に出る事もあり2回優勝した事が有ります。

優勝1曲目は、「分かって下さい」これは普段から弾き語りでもカバーもしていたので上手く歌う事が出来ました。

もう1曲は、「みちのく一人旅」演歌で優勝です、歌い方が新鮮だと評価されての優勝。多分演歌調で唄えなかったのが功をそうしたのだと思います。

この2回の優勝賞品はタンス、米びつでした。

米びつは車に積んで帰りましたが、タンスは乗用車に乗らなくて、おまけに今日中に持ち帰って下さいとの事、わざわざ軽トラックを借りて運んだ記憶が有ります。

1988年 (38才)

Ovationギター購入

しばらく女性とは縁がなかったのですが、久し振りに彼女が出来38歳で結婚する事になりました。

新婚旅行はハワイに行き、土産を購入する為にアラモアナショッピングセンター行きました。中に楽器店が有りOvationのギターが目に入り、即欲しいと思い、妻に許可を得て買うことに決めました。(今ならとても許可はおりませんが)

購入手続きの段階で、何かを英語で説明されるですがさっぱり分からなくこれは購入出来ないかなと諦めかけていたら、店員が知り合いの日本語が分かる人に電話し、その人を仲介してやっと言ってることが分かり無事購入出来ました。(保証書の事を説明したかったのでした)

帰りの空港で荷物預かりでは壊れても保障出来ませんと言われましたが持ち帰るしかないので、預けて持ち帰りました。特に壊れる事も無く心配する事は有りませんでした。

Ovation USA Elite 1718  $1,300($1→128円)

 

1987年 (37才)

会社での音楽との出会い

音楽からは無縁の会社生活をしていましが、以前私が音楽をやっていた事を知ってる社長から1年後に会社の30周年記念をやるからその時にバンドで盛り上げて欲しいとの話が有り、社内でメンバーを集める事になりました。PA機材も買って良いと言う事だったので、張り切って準備しました。

メンバーはボーカル/ベース/キーボード/ドラムが女性でエレキギターだけ男性の女性中心のグループ編成になりました。(ベースの娘がすごく上手だった記憶が有ります)

演奏曲はレベッカのコピーが多かったです。私は、自分では演奏しなくてマネージャー的な役割に徹しました。

30週記念では盛り上がる演奏が出来ひとまず責任は果たせたと思っています。

その後目的も無くなり、ライブハウスで一度演奏してから解散しました。

最後に

今後も新しい出来事、思い出した事を追記していくつもりです。興味がお有りでしたら引き続き宜しくお願い致します。

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