単身赴任

青森単身赴任記録

初めに

岐阜県多治見市から青森県五所川原市に1996年に単身赴任し2009年に帰任した赴任中の記録です。

楽しかったな~13年間の青森単身赴任

津軽三味線に出会えた。
五所川原市は住みやすい街です。
雪がたくさん降る。
一人の時間を過ごせた。
仕事は、自分の思うように出来た。

以上の様な理由ですが、でも妻はどうだったか?「亭主元気で留守が良い」な~んて思っててくれたら気が楽だったけど。
高齢の、父親の面倒を見させたので多分苦労していたと思う。

13年間には色々有りました、今になれば全て懐かしい思い出です。

五所川原市の紹介

五所川原市(ごしょがわらし)は、日本の東北地方最北部、津軽半島中南部に位置し、青森県西部に所在する市である。旧市浦村域は飛地となっている。人口は現在5万7千人ほど。

詳細はこちらで確認出来ます。五所川原市

生活してみて、スーパー、ホームセンター、市役所、警察もすごく近くて便利であった。
スーパーでは鮮魚が安く手に入いる。
雪は多いが、アパートの駐車場は地下水で融雪しているので、楽であった。

何故、五所川原市へ

会社が青森に工場を作る経緯は、岐阜の会社は1989年頃かなりの繁忙で人手不足の為、青森県の五所川原市から多くの季節労働者に来てもらっていた。
その関係で五所川原市から工業団地を作るのでと誘致の話が有り1991年にとりあえず土地を購入した。

そしたらバブルがはじけて工場建設は延び延びになったいた。土地を買ってからは、いずれ青森に工場を作ると、青森から従業員を岐阜の本社に採用するようになった。

かなり多くの人が入社したが、工場建設が中々始まらないので会社をやめた人間もかなりいます。
やがて景気が回復し、工場建設が始まった。

青森の工場で何をやったらいいか上司からアドバイスを求められた。自分なりの考えを述べた、まさか自分が行くとは思いもしなかった。

その後、私の考えた事を青森の工場でやる事になり、3年契約で行ってくれないかと話があった。

私の考えを聞いたのは、行かせる為の作戦だったかも?

家族との相談の結果、高齢の父親が居たので単身で赴任することになった。

会社の立地

会社の前方には、ストーブ列車で有名な津軽鉄道が走り、会社の裏手からは岩木山が一望でき、夏の花火は会社の2階から見える。
周りには田んぼも多くのどかな環境の良い青森テクノポリスハイテク工業団地漆川に有る。

予言的中

親戚に予言が出来る人がいて、会社が青森に土地を買った話をしたら、そこに行く様になると言われた。
その5年程後に、まさか的中するとは、言われた時は全く思いもよらなかった。

初めての五所川原市出張

1995年10月、初めての五所川原は工場建設の地鎮祭の為に行きました。

小牧空港からJAS便で青森空港に向かった。

空港から五所川原市に向かうタクシーからは、道路すぐ脇にリンゴ畑、手を伸ばせばリンゴに触れられるぐらいに生っている。初めて見る光景だった。

五所川原市のアパート引き渡し

工場稼働1カ月前の1996年4月初旬に五所川原のアパートのカギを受け取りに行った。
青森は小牧⇔青森便が就航していて比較的楽に行ける様になっていた。
アパートは五所川原市市役所の人が手配してくれていた。

空港でレンタカーを借りて移動し電話番号だけ聞いていた不動産屋に取りに行くのに電話をして場所を聞こうとしたが、言葉が全然わからない、結局不動産屋名から電話帳で住所を調べてようやくたどり着いた。

対面での会話ならジェスチャーも入って分かりやすいが、電話ではさっぱり。未だに、青森の津軽弁の人と電話で話すことが有るが半分分かれば良い方です。

アパートは築1年2DKで一人で住むには十分でした。家賃も岐阜より1万円はやすいです。

引っ越し

1996年4月末に引っ越しの荷物を岐阜から送り5/1アパートで受け取る様に妻と二人で青森に向かった。妻は青森は初めである。

荷物を受け取り整理とホームセンターで日用品の買い出しをした。また社用車も受け取り、自由に行動できるようになった。

5/1の夕方、地元の神社(神明宮)に竣工式でのお祓いのお願いにいった。五所川原市内は今では藪など無く開けているが、当時その神社は藪の中に有り、灯りも少なくこわいような処だった。
引っ越しで来ていた妻も一緒に行って車の中に置いて一人でお願いに行った。

未だに、妻に言われるのが「なぜあんな怖いところに一人にした」。多分これからも機会が有る度に言われそうだ。
一人でお願いに行ったのだが、行く前に神主のイメージとして年寄りの人を想像し言葉が通じるかと心配した。玄関を入ると若い女性が出てこられ、標準語で安心した。静岡県から、こちらに嫁いでこられたとの事、岐阜と静岡は近いので少し安心感がでた。神主さんはその人のご主人だった。
無事、お願いして帰える事が出来た。

翌5/2には岐阜に帰り5/5までの連休は自宅ですごし5/6に青森に移動し準備の為、五所川原工場に出勤するようになった。
いよいよ、1996年5月6日この日から単身生活の始まり

竣工式

1996年5月24日にようやく竣工式を迎えた。

竣工式でのお祓いは、以前依頼して有った、五所川原の由緒ある神明宮の兄弟神主2名で荘厳な儀式が行われた。笛、太鼓での本格的なお祓いで有る。岐阜でこの様な、お祓いは見たことがない。

私は、昔から歌を唄っていて人前で話すのは得意だと言う事で竣工式典では司会役を上司から命ぜられた。人前で唄っていたのはもう何10年も前、しっかり緊張してかみかみの司会でした。

創業時は岐阜の工場で研修していた地元出身の7人、地元採用の女性と私の9人でスタートした。
仕事内容は、試作自動車製作の為の金型用モデル(当時は木型と言った)製作で始まった。

今では、金型はCADデータから加工データを作りNC加工するが、当時は実物大の木型モデルを作りそれを倣いながら金型を倣い加工していた。

初めての帰省

単身赴任後、1ヶ月目で初めて自宅に帰ることが出来た。
会社からタクシーで空港に向かうのだかタクシーに乗ってやっと帰れると思うとすごく嬉しかった。
この頃は、岐阜に行くのが帰るだったが、年数が経った単身赴任後半では青森に行くのが帰るに変わったいた。

この頃は、まだ単身赴任はつらかった。

甥の死

赴任した年の12月に17歳の甥が単車で車とぶつかり意識不明の重体に、約2週間後に息を引き取った。
私の妹の長男で、すごくかわいがっていて悲しい思いをした。単身赴任していなければ、事故を起こさなかったかも知れないと思う事もあった。

尾崎豊が好きで、ギターを弾きたいと言うので私のギターをやったのだが、また私のところに戻ってきてしまった。

この頃から、たとえばあの時こちらを選んでいたらこうなったとかは思わないようにした。もう結果は分かっていて、その結果に向けて生きているのだと。これによりその後あまり迷わなくなった。

25年近くたった今でも、なぜ居なくなったかと思い時々寂しくなる事がある。

津軽三味線

津軽三味線との出会いは、20才の頃、ラジオで津軽三味線の演奏を聞き、すごくエレキギターの様な音がして良いなと思い、やったみたいと思っていた、青森単身赴任が決まった時青森に行けば皆が津軽三味線をやっていると思っていた。

しかし、赴任して会社の従業員に聞いても誰もやっていないし、知り合いもいない。結局、習う事も出来ずにいた。

三味線を始める前に金木の三味線大会を見に行ったが、津軽じょんから節の激しい演奏に感動して涙がでた。

1997年7月から五所川原のイトーヨーカドーの文化教室で津軽三味線を教えるとの情報を聞き、早々に申し込んだ。わくわくしていった記憶が有る。三味線は、借りる事も出来るが持ち帰れないので、とりあえず練習用を買うことにした。練習用でも8万円程する、しかも津軽三味線は太棹だけど中竿で有る。ギターで8万円も出せばそこそこ良いものが買える。

練習は、アパートでは出来ないので、殆ど会社でやった。
毎年、青森県の弘前と金木で全国三味線大会が開かれるが習いだして5年目に、飲んだ勢いで人に大会に出ると宣言してしまった。

弘前は予選が有るが、金木はないのでとりあえず応募して出る事にした。それから8回出た。
自分で三味線をやりだしてからは良い演奏を聞いても涙が出る事は無くなった。
今から、思えばあの下手な演奏で大会に出場したなと自分で思います。
結局、これ以上は上手くならないと2017年に三味線は手放しました。
最近、三味線を弾いてる夢を見て、音が恋しくなりまた三味線を買ってしまった。

原因不明の関節の痛み

三味線を始めた頃、右手は撥を持つので右手の手首が痛み出した。やがて手や足の関節が痛み出して、寝ていても足が痛い、一晩椅子に座っていた事が有る。
翌日、自宅に帰る為、朝アパートまでタクシーが来たが、2階から降りるのがやっとの事でタクシーにのった。
青森空港は同一フロアーで飛行機に乗り込めたが、名古屋空港はタラップだったので降りるのが大変だった。
この時、ひざはかなりはれ上がり皿が手で動く状態だった。
名古屋空港から、多治見の病院にタクシー直行し、ひざに注射を打ってもらった、この注射がまたかなり痛かった。
結局、リュウマチ、痛風でもなく原因不明のまま、知らない間に治った。

CD製作

若い頃からフォークの弾き語りをしていたのでフォークギターを持ってきていた。
五所川原市内にライブハウスを見つけ、唄ってみたいなと思い、訪れてマスターと話していたらCDを作りたくなった。
マスターにお願いして、1か月後くらいにライブ形式でMCも入れて録音してもらうことにした。
約、1ヶ月程練習して録音した。

その後、五所川原の音楽での知り合いが出来そのCDを渡していたらその人が五所川原FM放送のパーソナリティをやっていて2019年4月にこのCDから5曲ほどかけてくれた。

ストリートライブ

毎年8月の立佞武多が有る2日ほど前に、歩行者天国が有る。ここで1度、ストリートライブをやった事が有る。

結構、足を止めて聞いてくれて、一人ほめてくれて、ソフトクリームをくれた。自分の持ち時間があるライブなのでこれには参った、歌いたいけど歌えない、しばらく歌を止めて食べてから続けて歌った。

岐阜では、街中で唄う勇気はないが、知らない土地なので唄えたと思う。

NHKのど自慢大会

1999年11月6日、五所川原市でHNKのど自慢大会が開催されると知り、応募はがきを出したら当選して予選に出る事がでた。
これでも、多治見ではカラオケ大会で2度優勝した事が有ります。

一人40秒程歌って合否の判断がだされる。
演歌の「みちのく一人旅」を歌ったがあっさり予選落ち、声が全然出なかった。
この予選は、はがきで応募して当選する事自体がかなり難しい、とりあえず予選でも出れただけ幸運だ。

良い思い出の一つで有る。

妻からのFAX

1996年5月24日から2000年12月1日までの約4年半、毎朝妻がFAXを入れて励ましてくれた。

全てスキャンして取ってあるが、悲しい思い出も有るので、じっくり見返す事が出来ていない。

最初の日と最後にくれたFAXです。

忘年会

2001年の忘年会は、フェリーに4時間乗って函館まで行き帰りは電車で贅沢な忘年会であった。
ある年には、青森の積雪量のニュースによく出て来る酸ヶ湯温泉もいった。1000人の混浴だったが、湯気で中はあまり見えない。
岐阜の会社と違い一泊の忘年会が多かった。
とにかく、皆が酒を良く飲む、宴会は飲み放題でやらないとお金が持たない。また2次会は当たり前、4次会ぐらい朝まで続く事もある。
2次会以降は、参加費3,000円がお決まりで飲み放題で行われる。

孫の誕生

赴任して3年目に一人娘が結婚して2002年1月13日に男の孫が誕生した。
それから金曜日に岐阜に帰り、月曜日の朝一番の飛行機で青森の繰り返し回数が増えた。

会社での単身赴任は、私が初めての事で、すごく待遇が良く、月4回の帰省可、妻がたまに赴任先に来る交通費も会社負担、光熱費等も会社負担であった。

青森に妻は28回孫は3回来ている。(孫の旅費は自分持ち)

突然天井から

2005年この年は大雪で夜中、突然、天井から水が落ちてきた、おまけに火災報知器までなりだした。
何事かと!
屋根裏の空気孔から雪が舞い込み、部屋の熱で融けそれが天井の火災報知器のところから落ちてきたのだ。
とりあえずは、火災報知機を止めなければ、すぐ部屋のブレーカーを切り火災報知機を取り外し、真っ暗の中懐中電灯を頼りに報知器の電源コードを取り外した。
部屋の水の掃除をすませ、天井裏を覗いたらかなりの雪がまだ残っている。
しばらくは火災報知器の穴の下にバケツを置いてねた。

多治見市気温日本一

2007年8月16日14時20分多治見市が気温日本一を記録した。
私の実家は多治見だが、多治見市の気温が日本一に成った時は青森に居た。最高気温を味わうことなく快適な場所にいた事を多治見で話すとひんしゅくをかう。

この後、多治見の名前がテレビのニュースで流れる様になり、出身地を紹介するのに「多治見です」と言ってもかなり分かってもらえるようになった。

多治見の冬は一番寒いときで-6℃ぐらいになる、暑くて寒い処だ。

五所川原のほうが生活するには暖かい、家のつくりが防寒用に出来ているから。工場に於いても同じ事が言える。

食事

朝と夜は殆ど自炊していた、会社の昼食は、五所川原には学校の給食センターしかない為、全員ほか弁屋に注文していた、しかしそれだと皆が好きな物しか食べなくて栄養が偏ってしまう。後には仕出し屋から日替わり弁当を取るようになった。

岐阜では、昼食に出ないような美味しい海産物が入っている事もあった。また冷凍食品は使わないのがその店のモットーで美味しい弁当であった。

朝は、定番の卵焼きと味噌汁とごはんで夜はお米はたべないので、居酒屋風のメニューが多かった。
アルコールは、赴任当初は缶ビールだったが、空き缶の処理が面倒でのちに焼酎にし現在も焼酎を飲んでいる。
仕事中も今晩は何を食べよう、帰りにこれを買わなければと、仕事に身が入らない時もしばしばあった。

外食

赴任して2年くらいは岐阜から毎月、課長クラスが全員の給料袋を持ってきていた。
当時、給料は現金払いで、現金を銀行に卸しに行き岐阜から届いた給料袋に詰めていた。(でも赴任から3年ぐらいで後は、郵送されるようになった)

社長の強い意志で「男性が給料をもって帰らないと家庭での威厳が下がる」とのことで、数年前までは現金支給だった。

月に1回の楽しみが、岐阜から来た同僚と食事に行き、2次会に行く事だった。工場は、私以外青森の人間で、この頃は、岐阜の同僚と飲むのが一番楽しかった。

単身赴任する前、皆から現地妻とか言われ、からかわれたが、毎日外食で出歩いていれば出会いの機会も有るだろうが、自炊していては、そんな機会は全くない。(決して出会いを望んでいたわけではないので誤解のない様に?)

帰任のきっかけ

自宅に帰っていた時、7歳の孫に木で椅子を作ってくれとせがまれ、当日、寝違いをして背中が痛かったが無理して作ってやった。案の定、さらに背中が痛みだし木槌で叩くと気持ちが良いので背骨をかなり叩いた。

翌朝、目が覚めたら右腕が痛くてたまらない。2009年9月14日この日は、青森に帰る日、とにかく空港まで電車でいき、朝食できしめんを食べようとして箸を持ったら手が痛くて食べれない。
一向に良くならないので9.16再び自宅に帰り県病院で診察を受けた、頸椎症と診断されて湿布薬をもらって帰った。多少良くなったので9.28再び青森に移動し青森の外科で首を伸ばすリハビリをしていた。

後は湿布薬で湿布するのだか一向に効果ない。一度先生に、椎間板に神経が触れる事により痛みを生じるので湿布しても直らないのではと疑問を投げ掛けたら、其のとうりとうなづかれた(でも湿布薬はいりませんとは言えなかった)

まだ、良くならないので、長期休暇をもらい自宅で療養することにし2009年10月6日に自宅に帰り、地元の外科で首を伸ばすリハビリに通った。10月末頃にだいぶ良くなったので11.2再び青森に赴任した。

この月に、上司が体調を気遣い、帰任の話が出て、2009.12.27に13年の単身赴任を終えて帰任した。

2019年9月30日現在、再発はしていない。

アパートは2010年3月に引き払うことにした。
この時は、妻、孫も同行し最後の青森を満喫した。

最後に

岐阜に帰ってからも、五所川原の工場を立ち上げたことで永久顧問にして頂いた。帰任後、現在も2月に1度くらいは五所川原の工場に出向いている。

単身赴任当時の写真をパソコンに入れていたが、パソコンのバージョンアップの時に間違って多くを消してしまって記録写真があまり残ってないのでここに載せれないのが残念です。

 

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