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音楽と歩んだ20代の楽書き

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音楽と歩んだ20代の楽書き。

 

初めに

音楽に興味を持った高校生時代からの私の音楽関連事項と人生の変換点になった楽書(落書)きです。

過去の事は思い出して書いていますので時系列でおかしな所も有ると思いますがご容赦下さい。

20才代編

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1976年 (26才)

音楽との決別

多治見に帰ってから、家壊し、土建などのアルバイトをしながら音楽活動をしいました、一緒に家壊しをしていた従弟に女の子を紹介され、真剣な付き合いが始まり結婚を考える様になりました。

結婚となると当然、今の状態ではダメだと思い音楽もやめ、まともに就職をしようと考え、職業安定所に通い、物を作るのが好きだったので製造会社を面接することに決めました。

歌の「いちご白書」の歌詞に、「就職が決まって髪を切ってきた***」と有りますが、私は面接の前に切りました。髪を切る時は男ですが涙がでました。

幸い、その会社の面接官が高校の大先輩にあたる人ですんなり入社する事が出来ました。

入社:1976年9月(26才) 本社:各務ヶ原 工場:可児工業団地

さあこれで結婚に向けて頑張ろうと思っていましたが翌年の春に彼女に振られてしまいました。

音楽も辞めたのにと思いましたが、とりあえず彼女のおかげて普通の生活に戻れたので仕事を頑張ろうと決め、しっかり働く事にしました。

余談ですが色々の仕事をやりましたが「家壊し」の仕事が一番楽しかったです。

1973年 (23才)

再びグループを組む

体調が良くなってから再びソロでやっていましたがヤマハがメンバーを集めてくれて日比野てつみ&ストロベリーなるグループを結成しました。

全員のメンバーは覚えてませんが、エレキギターは元、八事裏山フォークオーケストラの加戸君(?)とドラムはヤマハの桜井君だったと思います。フォークロック的なバンドでした。

でも長くソロで活動していましたので、バンドは好きな様に出来なくてあまり長続きしませんでした。

オムニバスLPの製作

名古屋のヤマハを中心に活動をしている5グループをムックと呼んでいました。ある日ヤマハがムックのオムニバスLPを作ってくれるとの話が有り、1グループ2曲ずつ入れる事になりました。皆で協力しそれぞれの楽曲を入れました。

うめぼし秋の終わり/雪の夜
金沢 栄東あした天気になあれ/夫婦箸
紙風船一人ぼっち/
もう少し笑ったら/明日を求めて
日比野てつみ失恋/死去

今でも音源は有るのですが、LP自体は昔友人に貸したら戻ってこなくて残念です。
CDはムックのメンバーが焼いてくれました。(個人用)

ソロ活動

冥土IN邪蛮の時から名古屋のヤマハでお世話になり活動をしていたのでソロになっても唄う機会は有りました。

遠藤健司さんの前座やテレビ、ラジオ出演もさせて頂きました。

其ころ私のフアンだと言う女の子から電話で一度お会い出来ませんかと来たので、岐阜駅で会う事にしました。背の高い好きなタイプの女の子でした。以前から私のファンで金山市民会館のコンサートも聞きに来てて録音もしてくれていました。

特に私の愚痴の歌詞の「外はさわやかな風が吹いているが部屋の中は煙草の煙がくすぶっている」が一番好きだと言っていました。彼女は詩の才覚が有り、色んな賞を取っていました。そんな彼女に言われて非常に嬉しかったです。彼女とはしばらく付き合う事になり、30くらい歌詞も書いてもらいましたが結果4曲くらいしか出来なかったです。

其ころは、フォーク歌手になりたくて会社も辞めていて、コンサートなどの企画会社でアルバイトをしてました。

吉田拓郎さんのコンサートに手伝いに行った時、拓郎さんの楽屋に行き自費出版のレコードを聴いて下さいと手渡した事があります。

特に山平和彦さんのコンサートを専門で、よく手伝っていました。その当時、マイぺースはアマチュアで山平和彦さんのバックバンドをしていました。その後しばらくしてから「東京」が大ヒットして、あのマイペースがと驚きました。

その様なアルバイトをしていて、体調を崩し右脇腹が痛むようになって岐阜のアパートで2,3日寝ていたら突然両親が多治見からアパートに来て、病状を見てそのまま多治見の市民病院に連れていかれました。

急性胆嚢炎で即入院、もう少し遅ければ手遅れになっていたと。二週間の入院でとりあえず完治しました。

それを機に一人暮らしをやめて多治見の実家に戻る事になりました。

住まいの経緯は岐阜市で生まれ20歳頃まで岐阜の自宅、その後家出してアパート住まい、家族は私が20歳の時父親の転勤で多治見市に移り住みました。(現在の住まいです)

実家に戻った事もあり、私のファンの彼女とは自然に分かれる様になりました。

後に、この元彼女から電話が有り自分の詞がレコードになると聞きました。すごい事だなと思い発売と同時に買いました。別れてからわざわざ連絡が有ったので、片思いの曲ですが歌詞は私の事を書いたのかと勝手に思っています。

歌詞の一部です。

歌 松本ちえこ  思い出不足

名前も住所も電話番号も血液型も星座もすべて

あなたの事は調べて有るけど、あなたは私を知っていますか

恋人になれなくてもいいんです、片思いで終わったもいいんです。

だけどあなたはいつも素通り あまりにあまりに思い出不足

1972年 (22才)

バイタリス・フォークビレッジ

吉田拓郎さんが司会のニッポン放送のバイタリスフォークビレッジ、アマチュアが応募して予選通過でラジオ放送してもらえる、アマチュアの登竜門的な番組でした。

詳しい記憶は有りませんが、1972、1973年の2回予選通過でラジオに流れました。

解散コンサート

冥土IN邪蛮として活動をしましたが、とりあえず目的のレコードも出来たので、解散しようかと考えていた頃、名古屋の市民会館でのフォークコンサートの前座の話が有り、これを解散のステージにしようと決めました。

 

←このバンドをプロが撮ると↓

名古屋市民会館の大舞台でした。

下の方に小さくカタカナ表記でメイドインジャパンと有ります。

ヤマハのフォトジャーナルの表紙にして頂き貴重な思い出になりました。

この頃、私も多少、名前が知られていて、その時、女の子にサインを頼まれましたが、仮にもフォークシンガー?サインなんか出来ないと、共演していた金沢栄東君にしてもらったらと振りました。後ですごく悪い事をしたなと後悔しまくりです。栄東君は盲目のフォークシンガーで多分サインは出来なかったと思います。彼はプロとして歌っているはずなので、どこかで会ったら謝りたいと今だに思っています。

同メンバーの加納君は解散後「うめぼし」と言うデュオと他1名のメンバー4人で新たな「うめぼし」のリーダーとして活動を開始し、ヤマハの第5回ポピュラーコンテストで入賞し、やがて「はしだのりひこ」事務所からの誘いで東京に出て行って「ポパイ」というバンド名でプロとして活躍する様になりました。

加川良さん前座

加納君が労音の会員だったので労音主催の加川良さんのコンサートの前座で冥土IN邪蛮が出れる事になりました。

憧れの良さんの前座、すごく嬉しかった。当日、良さんと話す機会も有り、教訓1を聞いてすごく感激し「会社を辞めて歌をやってます」と話しましだが反応はあまりなかってがっかりしました。(当時カリスマのフォーク歌手なので当然かと)

そのコンサートでは「いとうたかおさん」(ぺケさん)も出ていて、新岐阜駅までぺケさんを迎えに行き、自分の車で会場まで来て頂いた事が有ります。

私はぺケさんの事を知らなくて、ぺケさんにどなたですかと名前を聞いてしまった。後々思えばプロの方に大変失礼な事をしたと思いました。

この辺りは、21才と遅い時期からフォークに転向したので、フォーク界の事はあまり知らなかったせいです。

貴重な友人との出会い

美濃フォーク集団の仲間集めで、岐阜市内でチラシを配っていたら一人の男性がチラシを受け取り、フォークをやってる友人が居るからと紹介してくれました。

この時紹介してくれた彼とも友達になりましたが残念な事に2018年永眠しました。(同い年でした)

しばらくしてから紹介された人物の可児市の自宅にいったら彼の家は、すごく色んな楽器が有り特にメインではビブラフォンをやるとの事でした。

偶然にも同級生で学校は違うが工業高校卒同士だったので、すごく気が合いました。

彼は3人でバンドをやっていて、丁度私は自費でレコードを作ろうと思っていたので一緒にやろうという事で彼の提案で冥土IN邪蛮(メイドインジャパン)と言う名のバンドを7月頃作りました。

彼は嘉納きよし(後に海援隊、イルカ、西岡たかしのサポートメンバーとして活躍)

その年に名古屋で3曲入りのコンパクトLPレコードを200枚作りました。(ジャケットは手作り感満載)

 

 

 

 

冥土IN邪蛮のメンバー構成

日比野哲巳 ボーカル/アコーステックギター/ハーモニカ

嘉納きよし ビブラホン/パーカッション

旭 伸一  エレキギター

若山 孝  エレキベース

このレコードはのちにヤフオクで高額で落札された事も有ります。音楽性が良いわけでなく珍しさだと思います。(自分で聞いてひどい録音だと思います)

1971年 (21才)

美濃フォーク集団

フォークをやりだしたら今までと違う友人が出来、仲間で「美濃フォーク集団」を作り時々、仲間内でコンサートを岐阜市を中心に開催してました。

其ころはフォークと言うと反戦と結び付けられる様なところが有り、知らず知らずのうちに過激な人がメンバーに入ってくる事もありました。

当時、美濃フォーク集団メンバー表を免許証の中に入れていて落としたことが有り、警察に免許証は届けられましたがメンバー表の中に、私は知らなかったのですが、のちの連続爆弾事件を起こした人物でその頃から警察にマークされていた人物が居て、免許証を受け取りに行った時、追及された事もありました。

だが、「美濃フォーク集団」はもともと歌好きの集まりで政治色とは程遠い仲間でした。

教訓1加川良 

中津川フォークジャンボリーでの生写真です。

中津川フォークジャンボリーに行った1971年に良さんの教訓が発売され、初めて6畳一間のアパートで独りの時ポータブルプレーヤーで聞きました、聞いてて涙が出てきました。一人で良かった、彼女が部屋に居たら泣けなかった。

今のサラリーマンの自分で良いのか、歌で生活出来るようになれば良いなと思う様になりました。

オリジナル曲を唄う様になったのはこの頃からです。

中津川フォークジャンボリー

1969年、1970年、1971年と3回に渡り岐阜県中津川市坂下椛の湖で開催されたフォーク野外コンサート。

詳細はこちらで(全日本フォークジャンボリー – Wikipedia)

友人に誘われ21歳の時、第3回に名古屋から中央西線で汽車に乗り行きました。

其ころバンドでエレキを弾いてましたが、すっかりフォークが良くなり帰ってきてからヤマハの12000円のアコギを買いました。

その頃家出をしてて、色々な事に反抗したい時期であり、世の中を風刺する、特に関西フォークにひかれたのだと思います。

フォークに転向する大きな切っ掛けになったコンサートでした。


1969年に第1回が開催されましたが、その1週間ほどに後にアメリカロサンゼルスでウッドストックが行われました、ウッドストックの記録映画が翌年上映され6回も見に行った記憶が有ります。

1970年   (20才)

家出

20歳になったこの年に初めての彼女が出来、外出とか、遅く帰える事が多くなりそれが原因で親と喧嘩して、家出をしてアパート住まいしていた彼女の元に居候する様になりました。

工業高校で男性ばかりでしたので女性と知り合うのが遅かったです。

家出してからしばらくして、自宅に寄ったら誰もいなくて、玄関わきに着替えが用意して有って持って帰った記憶が有ります。やはり喧嘩しても親だなと思いました。

音楽には直接関係ないですが、人生の変化点ですので書きました。

1969年 (19才)

栄フォーク集会

1969年頃、ベトナム戦争反対のフォーク集会が新宿西口で盛んにおこなわれていたが、名古屋栄でも行われていました、愛知県清須市に務めていた事もあり、栄のフォーク集会にはたまに見学気分で出かけていました。

この頃はフォークソングとは無縁でローリングストーンズやグループサウンズのコピーバンドをやっていました。

栄フォーク集会での冊子(40ページの一部です)

 

1967年 (17才)

最初に買ったギター

1966年にビートルズが来日し、テレビで放映されたので初めてビートルズのレコード「抱きしめたい」を購入したが、この後ぐらいから日本ではグループサウンズが流行り出したのでビートルズには興味がなくなりました。

私もエレキギターが欲しくてアルバイトをし3流メーカーの3千円ぐらいののギターを購入しました、最初に覚えた曲は、ワイルドワンズの「思い出の渚」で最初に覚えたコードはEでした。

この時高校2年生で、4人でバンドを組みグループサウンズのコピーをする様になりました。高校3年生の頃には、やはりいいギターが欲しくてベンチャーズが使っているモズライトのコピー版の3万円程するモラレスをローンで購入しました。(当時高卒の初任給が2万)

高校卒業で皆、就職しバンドメンバー2人だけになったので他高に行っていた幼馴染ら3人と計5人でバンドをやる事にしました、やはりグループサウンズのコピーやローリングストーンズのコピーをやってました。

この頃はディスコが流行で友人に初めて連れていってもらいましたが、ロックのあまりの迫力、やはり大音量には興奮しました。

大音量好きになり、いまだにヘッドホンで大音量の音楽を聞いていて眠る事が出来ます。

最後に

今後も新しい出来事、思い出した事を追記していくつもりです。興味がお有りでしたら引き続き宜しくお願い致します。

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